継承

当法人は全国の文化継承者の皆様のご協力のもと、運営しております。

【槍術】(宝蔵院流高田派槍術・二十一世宗家)

■歴史と概要

流祖・宝蔵院覚禅房胤栄(1521~1607)は奈良・興福寺の僧です。武芸を好み、槍の修練に努めついに鎌(かま)槍(やり)を工夫し、天文22(1553)年摩利支天の感得を得て宝蔵院流槍術を創めるに至りました。 宝蔵院流の槍は、通常の素槍に対し、鎌槍と称する十文字形の穂先に特徴があります。この鎌槍を活用した宝蔵院流槍術は攻防に優れ、画期的な武器として「突けば槍 薙げば薙刀 引けば鎌 とにもかくにも外れあらまし」との歌が伝えられるように全国を風靡し、日本を代表する最大の槍術流派へと発展しました。(宝蔵院流槍術は平成25年放映のNHK大河ドラマ「八重の桜」の舞台となった会津藩にも伝えられており、制作・収録に協力するとともに伝習者も出演しました。)

【茶道】上田 宗冏(上田宗箇流家元)

上田宗箇流は、豊臣秀吉の側近くに仕えた大名として寵愛を受け茶の湯を千利休、古田織部に師事し、古田織部の元で武家茶道を創設した上田宗箇が、元和5年浅野長晟に従って広島に客分として入国、広島県西部一万七千石を知行し芸州藩(広島藩)家老となり、以来400年近くになり当代宗冏家元が

十六代当主である。

 

【華道】宇田川 理翁(古流理恩会・十一代家元)

■歴史と概要

古流は江戸中期(明暦年間)に江戸で一志軒今井宗普により、創流された華道の流派です。そのシンプルで潔い姿は当時の人々に愛されました。一志軒の後、安藤涼宇、関本理遊(現在の花型を完成させた)関本理恩(理遊の花型をさらに進化させた)と代を重ね、理恩師の後を引き継いだのは宇田川理登でした。時代は幕末、明治維新がおこり、江戸から東京へと価値観が大きく変わり、華道をはじめ日本の伝統文化は否定された厳しい時代を迎えます。やがて伝統が再認識され、全国に散り散りになっていた古流は東京に集結、息を吹き返しました。(古流協会の設立)現家元は1990年に11代家元を襲名し、次世代を担う華道家として各界で活躍、現在に至っております。

【弓術 弓馬術 礼法】小笠原 清忠(小笠原流・三十一世宗家)

■歴史と概要

小笠原流は、武家故実(弓馬故実)、弓術、弓馬術、礼法の流派。小笠原家は、足利家や徳川家と同じ清和源氏の家系です。初代小笠原長清は、源頼朝の礼法、弓術、弓馬術の師範となり、1187年に鶴岡八幡宮にて源氏としての流鏑馬を披露しました。その後、小笠原家は、江戸時代まで代々の将軍家の師範役を務めてまいりました。明治維新により、武家社会が終焉を迎えた後は、一般に門戸を開き、「流儀を教えることで生計を立ててはならない」という家訓を守り、現宗家三十一世小笠原清忠も、他に仕事を持ちながら、全国の門人と共に、流鏑馬や弓術、礼法の儀式を各地で執行しております。さらに、財団法人を設立するなど、時代に即した流儀の継承に尽力しております。

【神職】鹿島 則綱(鹿島神宮宮司家・七十一代当主嫡男

■歴史と概要

鹿島神宮御創建の歴史は初代神武天皇の御代にさかのぼります。神武天皇はその御東征の半ばにおいて思わぬ窮地に陥られましたが、武甕槌大神の「韴霊剣」の神威により救われました。この神恩に感謝された天皇は御即位の年、皇紀元年に大神をこの地に勅祭されたと伝えられています。その後、古くは東国遠征の拠点として重要な祭祀が行われ、やがて奈良、平安の頃には国の守護神として篤く信仰されるようになり、また奉幣使が頻繁に派遣されました。さらに、20年に一度社殿を建て替える造営遷宮も行われました。そして中世~近世になると、源頼朝、徳川家康など武将の尊崇を集め、武神として仰がれるようになります。

【刀匠】月山 貞利 (月山派・奈良無形文化財保持者)

■歴史と概要

月山鍛冶は鎌倉時代初期の鬼王丸を祖とし、奥州月山の麓で鎌倉、室町期に栄えました。月山鍛冶の最大の特徴は、刀身全体に波のように流れる「綾杉肌」で、月山鍛冶の鍛えた刀身に顕著に現れることから、月山肌とも呼ばれます。江戸時代初期、松尾芭蕉の「奥野の細道」に「此国の鍛冶、霊水を撰てここに潔斎して剣を打、終に月山と銘を切って世に賞せらる」とあるように、この時代にも月山鍛冶の名は広く知られていました。幕末の月山貞吉もこうした鍛冶の1人でしたが、天保期に大阪へ移住し月山鍛冶の再興を果たし、大阪月山の基を開きました。その後、月山貞一(帝室技芸員)、月山貞勝、月山貞一(重要無形文化財保持者)の各時代に様々な苦難を乗り越え、現在の月山貞利、また後継の貞伸へと連綿と続く技術が受け継がれています。

【茶道】川上 博之(江戸千家・十代家元嫡男)

■歴史と概要

江戸千家は「茶の湯」または「茶道」と呼ばれる文化を伝える流儀の一つで、東京は池之端という地にあります。江戸期の茶人、川上不白(1719〜1807)に端を発し、不白は紀州新宮藩士の家に生まれ、16歳で京都は表千家7代、如心斎のもとへ送られました。修業の後に江戸へ戻ると、江戸の千家流の茶人として武家社会から町人社会まで茶を広めていき、指南先には幕府の閣僚、大名から寺院の門跡、両替商、札差などの名が見られます。また、江戸に集まる各藩の大名達によって地方にも広がりました。以来、江戸の社会、明治以降の日本社会と交わりながら、東京の市中で茶の湯を伝える流儀として現代に続いています。

【薙刀】木村 恭子 (天道流薙刀術・第十七代宗家)

■歴史と概要

 天道流の始祖は斎藤判官伝鬼房である。伝鬼は常陸国井手(茨城県)に生まれ、塚原卜傳の門に入り刀槍の術を学んだ。大勢の門弟の中で群を抜いていたが、技の未熟を深く心に感じ、鎌倉鶴ヶ岡八幡宮に百日参篭をなし、天正九年十一月二十一日満願の夜、夢の中に捜し求めていた剣の妙技が記された一軸の巻物を天から授かり、誠の道にかなう妙技を得て一流を興してこれを天流と称し、後に天道流と改めた。

 これにより諸国を巡り修行を重ね、京都ではその剣名が上聞に達し、「一刀三礼」の秘剣を天覧に供したといわれている。諸国修行を終えて郷里井手に居を構えて名声を馳せたが、霞神道流・真壁道無の門下、桜井大隈守と決闘、射殺される。

 その際に示した矢切りの術を「一文字の乱」といい、いまなお天道流の基本とされている。伝鬼房の最期を見届けた弟子の小松一卜斎が伝鬼房の実子・法玄にこの技を伝え、法玄は二代目を継承し、その流儀は現在まで薙刀、二刀、剣、鎖鎌、小太刀などとして伝承されている。

【公家】近衞 忠大(近衞家・三十二代当主嫡男)

■歴史と概要

近衞家は藤原鎌足を祖とする公家で、五摂家筆頭の摂関家です。長く官職の座にあり、朝廷の公事儀式にも関わり、明治から昭和初期にかけては貴族院議員として1300年あまり政治に関わる一方、それぞれの時代において和歌、書画、茶道や香道など常に文化に寄り添ってきた家です。

 その足跡は数々の古文書、書状として今に伝えられています。世界記憶遺産1件、国宝8件、重要文化財60件を含む、それら10万件以上の文化財は京都・宇多野にある陽明文庫に収蔵されています。

【能】金剛 龍謹(金剛流・二十六世宗家嫡男)

■歴史と概要

金剛流は能楽シテ方五流派のひとつで、古くは奈良の法隆寺に奉仕した猿楽座の坂戸座を源流とし、室町時代初期には春日興福寺に勤仕する大和猿楽四座のひとつとなり、のちに金剛座、そして現在の金剛流へと至りました。金剛流の芸風は、豪快でめざましい動きの中にも、華麗・優美さがあり、「舞金剛」といわれます。また、豊臣秀吉拝領の「雪の小面」や艶麗な「孫次郎」など、所蔵する能面・能装束に名品が多いことでも知られ「面金剛」ともいわれています。五流のうち四流の宗家が東京を本拠地にしている中で、関西に宗家が在住する唯一の流儀です。平成15年に、四条室町にあった金剛能楽堂を、能舞台をそのまま移築して京都御所の西向かいに移転、開館しました。

【能】金春 憲和(金春流・八十一世宗家)

聖徳太子に仕えた秦河勝を家祖とすると言われ、現家元金春憲和で八十一世を数える能楽最古の歴史を有する流儀です。旧くは「円満井座」と称しました。流儀中興の祖、五十七世金春禅竹は能楽の大成者世阿弥の娘婿で、世阿弥から『六義』『拾玉得花』のほか多くの伝書を相伝されるなど、世阿弥とは親密な関係でした。岳父の薫陶を得た禅竹は、名曲と謳われる「杜若」や「野宮」などの能作、また『六輪一露之記』『歌舞髄脳記』『明宿集』など多くの伝書を残すなど、世阿弥の事績を受け継ぎ能楽大成に大きく寄与しました。

 

【大名家】島津 忠裕 (島津家・三十二代当主嫡男)

■歴史と概要

世界屈指の活火山・桜島を抱く鹿児島。島津家はかつて薩摩・大隅・日向の三州の地を、平安時代末期以降700年にわたり代々統治し、江戸からも京都からも遠く離れた地で独自の文化と繁栄を築いてきました。薩摩藩の領国は、中央史観から見ると辺境の地でしたが、対外に目を転じるとアジアやヨーロッパの玄関口で、古くから多くの人や文物・情報が往来していました。海洋国家薩摩は、海外の文化・技術や情報をいち早く受容・摂取してきたことから国際感覚が豊かで、日本の置かれた情勢を客観的に見ることができ、幕末維新期という我が国の大変革期にはその原動力になりました。

【騎射流鏑馬】竹原 陽次郎 (武田流・宗家四十七代)

■歴史と概要

世界屈指の活火山・桜島を抱く鹿児島。島津家はかつて薩摩・大隅・日向の三州の地を、平安時代末期以降700年にわたり代々統治し、江戸からも京都からも遠く離れた地で独自の文化と繁栄を築いてきました。薩摩藩の領国は、中央史観から見ると辺境の地でしたが、対外に目を転じるとアジアやヨーロッパの玄関口で、古くから多くの人や文物・情報が往来していました。海洋国家薩摩は、海外の文化・技術や情報をいち早く受容・摂取してきたことから国際感覚が豊かで、日本の置かれた情勢を客観的に見ることができ、幕末維新期という我が国の大変革期にはその原動力になりました。

【蹴鞠】 堤 公長(旧公家・千代田蹴鞠研究会)

■歴史と概要

堤家は藤原北家観修寺流、観修寺十三家の一家です。藤原鎌足の五代孫贈太政大臣冬嗣の六男良門の子高藤十五才の時山科に鷹狩に行き、雷雨に遭遇し宮道弥益の家で一夜を過ごし、その時に出来た娘、胤子が後に宇多天皇の女御となり後醍醐天皇が誕生され、後に後醍醐天皇は母胤子が産まれた家を寺として母の菩堤を弔い真言宗山科派本山観修寺を創建されました。胤子の弟、三條右大臣定方は観修寺に西堂を建立し、定方が亡くなった承平二年八月四日の一周忌より一族が集まり、観修寺氏八講を行われるようになり応仁の乱まで毎年一族が八月一日から四日まで観修寺に集まって氏八講を行ったと言われており、その後も一族の団結は固く事あるごとに集まり、江戸時代に観修寺一族のみが磯高の冠を持ちいたと言われています。

堤の家名は、定方のもっとも親しい従兄であり婿でもあった中納言兼輔が鴨川の鴨大橋と幸神橋の間の西岸の堤、現在の上京区寺町通り広小路上ル北之辺町に住んだ為、堤中納言と言われたようで、兼輔の曾孫の紫式部も源氏物語を堤第で書いたと言われています。この家が鎌倉時代末期に侍従季隆で断えた為甘露寺時長の弟貞長が江戸初期寛永八年二月一日後水尾上皇の思召しにより一家を起し堤の家号を再興して、代長、廣長は中納言となり、宇兵衛督哲長は孝明天皇に近侍し、功長、雄長は子爵貴族院議員を勤め、経町は昭和天皇の御学友として東宮職出仕を勤め公長に至ります。

 

【将軍家】德川 家廣(徳川宗家・十八代当主嫡男)

【陶芸】中村 太一(九谷焼開祖大聖寺藩主前田家御用窯 今九谷窯代表)

■歴史と概要

九谷焼は明暦元年、加賀藩の支藩である大聖寺藩初代藩主・前田利治公が、領内の九谷村において窯を築いたことを発祥とします。今九谷窯は明治三年、加賀の地に開窯し、大聖寺藩主前田家唯一の御用窯として、古九谷の心を今に伝えております。早くから、国内はもとより海外へも活動の場を広げ、大正四年にはサンフランシスコ万博にて金賞を受賞、昭和元年にはフィラデルフィア万博で最高大賞を受賞するなど、世界に通ずる日本文化の普及と継承に尽力してまいりました。

 

【能楽狂言方】野村 万蔵(狂言和泉流野村万蔵家・九代目当主)

■歴史と概要

野村万蔵家は、江戸時代に加賀前田藩の狂言棟取役をつとめた家系です。初代は享保7年の生まれで、63歳の時、狂言「狸腹鼓」の演技を賞して白銀二十枚を下賜されました。加賀藩では十代藩主重教の頃に能楽が最盛期を迎え、重教の命で作られたとされる加賀前田家狂言(「御渡之狂言」といわれる)の台本が万蔵家に伝わっています。代々北陸金沢の地で狂言役者として活躍し、5世万蔵が幼少期に明治維新にあい20歳代で上京。以後、東京における狂言和泉流の礎を築きました。戦災で舞台活動の危機にも直面しますが、6世および7世万蔵(現・初世萬)は戦後の狂言を牽引し、ともに人間国宝の栄に浴しています。

 

【香道】蜂谷 宗苾(志野流・二十世家元嫡男)

■歴史と概要

志野流は、足利義政の近臣であった志野宗信が香道を体系化、以降室町時代から現代まで香道発祥以来の歴史と伝統を途中絶えることなく20代500年に亘り父子相伝によってひたむきに守り続けてきました。 また、各家元は引き続き、香道という世界にも類稀な香り文化を後世に遺していく使命のもと活動。 途中、江戸時代には貴族、僧侶、武士、町 人にまで志野流の門人は増大していきますが、15代目家元宗意の時に幕末の戦乱に巻き込まれ、尾張徳川家の庇護のもと居を京都から名古屋に移すこともありました。のち明治維新により一旦は危機に瀕しますが、近年の香りブー ムの中で、日本独自の高尚な伝統文化として志野流香道はいま世界で再び見直されています。

【能楽】宝生 和英(宝生流・第二十世宗家)

■歴史と概要

能楽シテ方宝生流は、観阿弥の子であり、世阿弥の弟にあたる蓮阿弥を祖とし、大和猿楽四座の一つ、外山座を源流としています。後に宝生流と改め、江戸時代に徳川第五代将軍綱吉公の寵愛をうけ、大成しました。また、加賀(現:金沢)前田藩の召し抱えられたことから、特に金沢では愛好者が多く、加賀宝生と呼ばれています。他にも、世阿弥終焉の地、佐渡にも多く愛好者を抱えております。その芸風は「謡宝生」と呼ばれ、能楽界屈指の謡曲技法を擁し、全流儀でもっとも旋律的で美しい謡と言われています。

また舞は、質素な型を基礎に、流麗な動きを得意とし、多くの名人を輩出しました。

シテ方…能楽の中心人物を演じる役。他にも地謡(コーラス)や後見なども行う。

 

【大名家】細川 護光(肥後細川家・第十八代当主嫡男)

■歴史と概要

和泉上守護家の出身の細川藤孝(幽斎)は、はじめ室町幕府第15代将軍・足利義昭を支えたが、のち織田信長に属して姓を長岡に変え、丹後国五郡のうち二郡を領した。

細川幽斉の長男として誕生した忠興(三斎)は、一族である細川輝経の養子となるも、紀伊雑賀攻めで初陣し、信長の部将として実父とともに活躍。信長隠居後、織田家当主となった織田信忠より偏諱(「忠」の字)を与えられている。本能寺の変では、妻・ガラシャの父である明智光秀に与せず、羽柴(豊臣)秀吉に仕え丹後一国12万石と羽柴姓を与えられた。実父である幽斎は歌道の古今伝授の継承者、忠興自身は千利休の茶道の高弟として、文化面でも重きをなした。

【華道】望月 義瑄(宏道流八代・家元)

■歴史と概要

宏道流は江戸時代中期に初代望月義想によって創流された華道流派です。

義想は当時、わが国に入ってきた「瓶史」に深く心酔し共鳴しました。「瓶史」は中国明代の詩人であり文人であった袁宏道が著した花論書ですが、その文人隠逸なる花への強い憧憬は中国の文化・知識人の花に対する考え方を集約したものとしてわが国の文化人はじめ花道人に強い影響を与えました。

こうしたことから宏道流は、漢籍や中国書画などの知識を持つ武士や多くの人々に支持され、中でも肥後熊本の細川藩は「お家流」として文武両道の施政を用いられました。初代亡き後は「瓶史」の挿花精神をバックボーンとし、その精神性、品格は現代の今も脈々と代々受け継がれ現在八代義瑄に至ります。

 

 

 

【剣術】柳生 耕一(柳生新陰流兵法・二十二世宗家)

■歴史と概要

室町末期、上泉伊勢守信綱は愛洲陰流より「転」を工夫して新陰流を創始した。信綱に師事した柳生石舟斎宗厳は「無刀の位」を開悟して第二世を継いだ。宗厳五男の宗矩は徳川家康に仕え、将軍秀忠、家光の兵法師範となり剣名を天下に高めた。次いで十兵衛三厳、宗冬、宗在と伝えたが、江戸後期には惜しくも兵法から遠ざかった。

 一方、宗厳の長男厳勝の子、兵庫助利厳は祖父石舟斎の薫陶を受け、異才が開花し第三世を継承した。元和元年に尾張藩主徳川義直の兵法師範となり、太平の時代に即応する「直立つる身」-自然体-の兵法を確立し、上泉流祖以来の剣の理と刀法に根本的な改革を加え、当流を大成させた。

 利厳の子、連也厳包も天才的な達人で「尾張の麒麟児」と称えられた。当流は尾張藩の「御流儀」と尊ばれ、道統は尾張柳生家代々の師範と尾張藩主徳川家の協力によって正しく伝承されて、第二十二世宗家柳生耕一厳信に至っている。

【和紙】北見 音丸(一般財団法人世界紙文化遺産支援財団紙守・参事)

■歴史と概要

歴史や文化的営みの記録である文書や書籍は人類共通の文化遺産であり、これを未来に遺すことは現代の重要な責務であると考えます。古くから引き継がれたそれらの遺産は損傷し、或いは劣化しており、その修理には日本の古い時代の製法による紙が使われてきました。しかし必要不可欠と渇望されているにも関わらず、現在の日本においては古典的手法による紙の生産は衰退の一途を辿っています。そこで古典的な紙を増産し伝統的な紙産業に対する支援をするとともに、造紙に関する技術者を支援育成してゆくことで日本の伝統的な紙を再生させ、広く紙を普及させたいと2008年に発足した財団です。私は参事という立場で全体の指揮にあたっています。

【有職故実】鈴木 眞弓(元宮内庁書陵部職員・国学院大学非常勤講師)

■歴史と概要

平安時代、公家の日常の参内には、束帯と呼ばれた装束を着用しました。十二世紀になると従来の円満華麗で曲線的な美から、力強い直線的な美が好まれるようになり、地質を厚くし、糊で強く張って着装する強装束が現れました。強装束へと変化したことによって着装が簡単にはできなくなり、美しく着装するための専門家を要することになりました。この着装技術を衣紋と呼びます。鎌倉時代から室町時代にかけて徳大寺家から山科家が、大炊御門家から高倉家が衣紋を受け継ぎました。江戸元禄期頃になると山科・高倉の両家はお互いに競い合うようになり、次第に独自の着装形態が生じて、山科流・高倉流と称した着装技術が完成され、今日に続いております。

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